はじめまして!(NEWS No.449 p04)

医問研ニュース読者の皆さま、はじめまして。加畑理咲子と申します。私はいま京都大学医学部5回生で、医問研で学ばせていただいております。今回は私が医問研に出会ったきっかけや感想を書かせていただくことになりましたので、お読みいただけると嬉しいです。

さて、まず私が医問研に出会ったきっかけを、長くなりますがお話させてください。2011年2月、もう2年前のことになりますが、故原田正純先生のご講演を聴く機会に恵まれ、強い感銘を受けました。「生活の中で病気をみる」「カルテに書ききれない物事を少しでも拾い上げる」「中立とは、患者・弱者の側に寄り添うこと」という原田先生のお言葉は、今でも耳に焼き付いています。水俣病を学びに行こうと決心し、原田先生にお手紙を書いて、3月末に熊本で直接お話を聞かせてくださいとお願いしました。そして、水俣へ行く準備を整えた後での、大震災。戸惑いましたが、せっかく原田先生にアポを取ることができたのだし、やっぱりどうしても行かなければと出発しました。結果的にこの判断は正しかったのだと思います。

大震災直後のあの時だったからこそ、水俣病の患者さんにお会いし、原田先生のお話をじかにうかがったことは、私にとって大きな意味がありました。この時、いまも水俣病認定基準をめぐって訴訟がおこなわれていることを知り、2ヶ月後の2011年5月に福岡高裁へ傍聴に向かいました。この『溝口行政訴訟』は、溝口秋夫さんが熊本県を相手取り、いまは亡きお母様である「溝口チエさん」の棄却処分取り消しと認定義務付けを求めて、2001年から闘われている訴訟です。チエさんは1974年に認定申請されましたが、公的検診を完了することができないまま77年に亡くなりました。申請から実に21年後の95年、熊本県は棄却処分を言い渡しました。この間熊本県は、申請者が未検診のまま死亡した場合に必要な病院調査を、チエさんの死後17年間にわたって放置していたのです。このような認定審査過程の手続き上の違法性、そして厳しすぎる認定基準をめぐってチエさんが水俣病であったかどうかという医学上の争点、以上の二点を主な争点とした裁判です。この時の傍聴で出会った関西在住の支援者のかたが「来月(2011年6月)11日に反原発デモがあるから、大阪へ来ませんか」と声をかけてくださったのが、医問研に出会ったきっかけでした。このデモで私は幸運にも、林先生、入江先生、山本先生とお目にかかることができ、医問研に誘っていただいたのです。

医問研では、学校では全く聞けない話を丁寧に教えていただけるので、毎回大変刺激的です。医問研の先生方が教えてくださる一番大切なことは、権威に対する批判的な姿勢です。多くの医療関係者は、厚生省が、世界保健機構が、IAEAが、まことしやかに言うことを鵜呑みにしてしまいます。「だって’権威’がそう言っているから」と簡単に思考停止に陥ってしまうのです。ですが、医問研の先生方は常に「それは本当なのか?」と疑問を持つ姿勢を貫き、ご自身でデータを収集して検証をなさっています。この崇高な精神を、私の精一杯を尽くして吸収しながら、将来の目標に向かって歩む一年にしたいと思います。

拙い文章ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。また投稿させていただければと考えていますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。  (京大医学部学生 加畑)