医療トピックス 発達障害者支援法について(NEWS No.452 p03)

発達障害がマスメディアや教育界で焦点化している。しばしば犯罪との関連の文脈で話題にされるが、本来発達障害と犯罪とは関係がない。発達障害者支援法(以下「法」)や特別支援教育の実施に伴い、また誤解を招く報道によって発達障害児・者を見つめる眼差しが厳しくなっていることを危惧する。

本来の意味での発達障害は、「対人関係の障害(社会性の障害)・コミュニケーションの障害(言語機能の発達障害)・イマジネーションの障害(こだわり行動と興味の偏り、固執性)」を三つ組の徴候とする自閉症スペクトラム(障害)ASD=広汎性発達障害PDDを指し、いわゆる学習障害LDも発達障害だが、学校の対応次第では問題にはならない。しかし「法」ではASDやLDだけでなく、児童期・思春期に一過性に見られることがある注意欠如・多動性障害(ADHD)も含めている。精神科臨床や教育現場、「法」などによって発達障害の定義が異なることに注意を要する。以下、ASDという意味での発達障害は「」なしあるいはASD、「法」や教育現場でのより広範な障害を含む概念は「発達障害」と「」つきで表記する。

さて、「法」は「発達障害」児・者に役立っているのだろうか?「発達障害」の特性に応じた教育や高等教育での支援が「法」では謳われているが、実際には、「発達障害」児は単に「発達障害」とラベリングされて特別支援学級に押し込められて排除されるおそれがある。特別支援教育では、対象を「障害のある児童・生徒」と限定し、「障害児・者」と「健常児・者」といった線引きを堅持し、そのラインを今まで「健常者」とされていた領域にずらすことによって、障害者の数を増やすことに帰結する。障害や個々の子どもが抱える困難を認めて子どもたち、当事者たちを学校や社会が受け入れて包み込む「インクルージョン」の流れに逆行するものである。「法」の立場は、子どもだけでなく教師も管理されて成果主義にさらされる荒廃した学校や、労働現場でも個人に場の空気を読んで過剰適応するよう迫る社会の病理を、「発達障害」というラベリングを通じて、学校や社会に馴染めない個人の病理であるかのようにすり替えて排除するもの、自己責任原理を強調するものと考える。

かつて農林水産業などの第一次産業が主で対人関係能力がそれほど問われなかった時代には、ASDの人は第一次産業にうまく馴染んで、あるいは生真面目、実直な職人や学者などとして活躍していたが、サービス業=第三次産業が主流となり、第一次産業からASDの人が排除され、あるいは場の空気を読むことや営業活動が学者などの専門家や職人にまでも求められるようになった。あらゆる分野における市場原理と自己責任原理の徹底、つまり新自由主義が、言葉巧みに自分を売り込めない発達障害者を排除する必要から、また、教育現場においては学校による管理に馴染めない子どもたちを排除する必要から、「発達障害」者支援法を要請したのだと考える。

(岩倉病院 梅田)