『棄民政策と運動の過程』-原発事故は過去最大の公害問題(NEWS No.496 p05)

2011年3月から6年が経とうとしている。当時小学生だった二人の娘を連れ、南相馬市から3度目の避難先の木津川市に来たのは事故から3週間が過ぎた頃である。事故5年前まで京都市内に住んでいた縁で、友人が詳細に避難の情報を流してくれたことは大きい。木津川市内の『みなし仮設住宅』である府営住宅への入居手続きを済ませ、避難所でもらった衣料や飲み物、衛生品など少しの物資をごみ袋へつめ、木津川市民になった2日後はもう娘たちの小学校入学日だった。

お風呂と、温かい食事、久しぶりの布団で家族ゆっくりできたのだが、長い避難所の生活で上の娘は心身に変調をきたしていた。夢遊病がひどくなったのだ。夜中に鍵を開け、家を出ようとしたりする。朝は覚えていない。福島県の『心の調査』で当然、児童相談所通いを余儀なくされた。時が解決していったが、去年の『甲状腺がん検査』では、くしくも二人ともA2判定をいただいた。生活があわただしく過ぎようとも、南相馬市や福島県の状況は変わらない。原発事故は収束しないまま、モノトーンのフレコンバックが増え、街の様子は変容している。国や県は『復興』をかかげ、われわれの『命』を線量が高く荒廃した街に戻し、『避難の権利』を求める声も、『保養の政策の道筋』もすべて『アンダーコントロール』しようという算段だ。すでに南相馬市は、2016年7月に2012年3月時点での推定年間積算線量50mSv未満の地域を解除した。

2015年6月、福島県は住宅無償提供打ち切りを明言。その前後から撤回に向けた署名の提出、京都府や京都市との交渉、福島県との交渉を地道に、時には強硬的に行ってきた。2015年の12月福島県議会には住宅無償提供の延長を求める請願書を提出、審議は継続しているが、1年後の今月にはさらに請願者を増やした形で提出、西日本では京都府を中心に各自治体の議会からの意見書の採択が相次いだ。福島県はそれでも撤回を拒み続けている。

私たちは並行して、『避難の権利』を求め、国と東電へ原発賠償訴訟を起こしている。何人も被ばくをしない、させない権利を持つ。帰還政策にせよ訴訟にせよ、『被ばく』を語らずして前には進めないのだ。最大の公害に立ち向かう避難者の道は半ばだ。

原発賠償京都訴訟原告団共同代表・大飯原発差止訴訟京都脱原発原告団世話人  福島 敦子