司法が救いを放棄。医療は治療の場を超え、被害者の尊厳を回復させる場であるべき。(NEWS No.608 p05)

13年にわたる闘いを繰り広げた原発賠償京都訴訟に対し、最高裁は1月に上告を棄却しました。この決定は、長きにわたり避難生活の苦難を訴えてきた原告らの声を切り捨て、国の責任を曖昧にしたまま司法の幕を引くものでした。法の番人が救わなかった命と健康に対し、医療や社会はどう向き合うべきなのでしょうか。今、その覚悟が私たち元原告、国民に問われています。

司法の論理は、往々にして因果関係の厳密な証明を求めます。しかし、医療の現場が対峙するのは、数値化できない個人の苦悩です。低線量被ばくへの不安や、住み慣れた土地を追われ「故郷という場のエネルギー」を喪失したことが心身に与える影響は計り知れません。これらが複雑に絡み合い、尊厳を蝕むプロセスは、現在の司法の枠組みでは「損害」として十分に認定されずに終わりました。認定されないからといって、その苦痛が存在しないわけではありません。

私自身、脳腫瘍での入院や子宮摘出という過酷な病を経験。病床で身体の自由を奪われ、放射性物質の恐ろしさ、絶望を知る者として、現在も続く小児甲状腺がん裁判の原告たちの苦しみは他人事ではありません。また、医療問題研究会の知見によれば、原発事故後、周産期死亡率の上昇という看過できないデータが報告されています。科学が示すこうした微かな、しかし確実な生命の揺らぎを「未解明」として放置することは、医療の怠慢と言わざるを得ません。

司法が因果関係を否定しても、医療には「目の前の苦しみを事実として受け止める」という独自の役割があります。PTSDや生活習慣病の悪化といった二次的な被害を予見し、寄り添い続けることは、司法に背を向けられた被害者にとって最後の砦です。

司法が救いを放棄した今、医療は単なる治療の場を超え、被害者の尊厳を回復させる場であるべきです。事実を看過せず、科学と倫理の両輪で彼らを支え抜くこと。それこそが、閉ざされた司法の扉の前で立ち尽くす人々に向けた、社会としての誠実な応答になると信じてやみません。

原発賠償京都訴訟元原告 福島敦子

「過去最多を更新した子どもの自殺にどう対処するか」に関するおもな参考資料:

<子どもの自殺に関するニュース>

生きていて良かった 伝えたい 朝日新聞、2026年3月26日1面、2面

[社説]子どもの自殺最多 SOSに組織で対応を https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1813232

子どもの自殺 Child Suicide  https://kidsdoor.net/issue/suicide.html

<精神医学関連の文献>

立花良之ら 子どもの自殺防止―自殺企図による救急受診後のケースマネジメント介入について― 精神経誌、124、315-322、2022

三上克央 児童と青年の自殺再企図防止―危険因子と保護因子に鑑みて― 精神経誌、124、330-339