日本医師会は15年戦争で731部隊が中国で無抵抗の中国人,朝鮮人,ロシア人に対して行った人体実験に対して,事実を認め謝罪していない.ハンセン病 においても同様である.1996年「らい予防法」廃止,2001年5月23日原告側の完全勝利となった熊本地裁判決に対する国の控訴断念後も,謝罪声明は 発せられなかった.
今回紹介したこの本は,ハンセン病に対する私の医学的・社会的認識がいかに浅いものであったかを告発しているように思えた.特に医学的判断の誤りが,社会の偏見をさらに増長させ多くの患者の人生を奪ってしまったことはとり返しのつかないことである.
著者寺島医師75歳は,4年間ハンセン病患者と真摯に向き合い,人としての当たり前の扱いをせよと迫る患者の闘いの事実を記し,生活のありのままを写真に切り取ることで人々に訴えかけている.
1931年当時,全国の患者1万5千人を収容するため,順次人里離れたところに13の国立療養所を作った.療養所とは名ばかりで医師も看護婦も薬も不足 し収容所そのものであった.炭運びなど仕事はすべて患者が行った.亡くなった患者は郷里に戻る事もできず残った人々が火葬を行い納骨堂に納めた.結婚する と男は断種手術,女は妊娠すると堕胎を強制された.ナチスのユダヤ人皆殺し政策と同様であった.
「戦争への道を突き進む日本政府にとっては,戦争に役立たない患者はまったくやっかいもの」扱いであった.
そんな中でも待遇改善要求,患者自治会結成,生活改善・自治要求ハンスト,作業拒否などの闘いが各地でとり組まれた.しかしより強い弾圧が待っていた.
アメリカで治療薬プロミンの効果が確かめられた5年後の1946年,日本でも合成に成功し,プロミン獲得運動が展開された.51年当時欧米では他の疾患 と同様の扱いとされていたにも関わらず,政府は光田健輔,長島愛生園園長ら医師の意見を採用し「強制収容,隔離絶滅」政策を一層推進した.
国の完全敗訴,ハンセン病患者勝訴まで50年の歳月を費やした.栗生楽泉園入所者の平均年齢は76歳であり,帰るところはすでになく勝訴というにはあまりにも重すぎる半世紀である.厚生省や医師会からの謝罪は一言も無く偏見・差別は残った.ぜひ一読を.
(T)
医問研ニュース 2002年10月号