日本は何時でも核武装できると声高に唱える軽率な政治家が後を絶たない。そんな中で数年前に起こった東海村の臨界事故は,バケツ一つで原爆ができる状況が国内にあったのか,と驚いた記憶がある。
1999年12月21日,その2ヶ月半前まで妻と小学3年生になる息子とまったく健康な日常を送っていた35歳の男性が,体中の細胞が破壊される中で亡 くなった。それは東海村の核燃料加工施設JCO東海事業所で,核燃料開発機構の高速実験炉「常陽」で使うウラン燃料加工作業中,バケツ7杯目のウラン溶液 を流し始めた時に生じたパシッという青い光で始まった。この本は,原子炉の外で起こった核分裂の臨界で被曝した被災者の病状を克明に追跡したものである。
入院当日は右手の赤い腫れぐらいで,「よろしくお願いします」という大きい声の挨拶に,担当の看護師は治療で退院できる印象を受けた。しかし6日後には 粉々になっている骨髄細胞の染色体が確認される。血小板,白血球減少の進行に骨髄移植で対処するも,10日目にはテープを貼った部位の皮膚がくっついて取 れていく。「モルモットじゃない。治療を止めて家に帰りたい」との叫びも,呼吸状態の悪化で11日目の気管内挿管から聞き取ることはできなくなった。27 日目,腸粘膜が消失し大量の下痢が出現。火傷のように皮膚の再生はみられず,1日の浸出液は2Lを超え,移植される皮膚は着くことはなかった。50日目に 下血が始まり1日800 ccに及ぶ。「2000年をともに迎えよう」という家族の励ましもむなしく,83日目に多臓器不全状態で息を引取っていく。
無菌室治療,造血幹細胞移植,リアルタイムCPR,皮膚移植,持続的血液濾過透析装置など現代医療の最先端技術と受け入れた東大病院の医療スタッフの献 身的な姿が無力ともみえる,放射線による体細胞の破壊,復元という生命力そのものの破壊の恐ろしさが描かれている。広島・長崎,第5福竜丸漁船員の放射能 被曝の実相が,まさに現代の生活の中に蘇ったのである。
今月10日,配管破損で死亡5人,負傷6人を出した関西電力美浜原発3号機が遺族の反対を押し切って2年5ヶ月ぶりに運転再開。ところが慎重にも慎重を 期したはずの臨界予定が半日もずれ込んでいる。これら臨界の制御の破綻は,核エネルギーとの「共存」という思い上がりの危うさを示している。
若く力強い命が放射能によって火が消えるように失われていったことを記録する本書が,原爆被爆者の健康被害への理解と,核武装論の非現実・非人道性の暴露に結びつくことを願います。是非ご一読を。
(2007年1月)