原発事故発災から10年。思いはせること(NEWS No.547 p04)

今年の3月で原発事故発災から10年を迎えます。原発事故の後処理は、福島第1原子力発電所(イチエフ)内外ともに進んでいるとはいえません。最近頻発する福島県沖周辺での地震に、地元の方々が10年前の悪夢を思い出し「生きた心地がしない」と言いました。全国では30もの訴訟団が、国と東電(あるいは東電のみ)を相手取り提訴しています。避難者が住まう無償提供住宅補償は、「避難者は自立しないといけない」という国と福島県からの見当違いな理由により、2015年に打ち切られました。住宅確保が困難な首都圏では、公営住宅の抽選に漏れるなど正当な理由があり住宅を出ていけない避難者に対し福島県が提訴するという国際人権法を全く無視した人権の蹂躙が続いています。この10年の原発事故が落とす影を記したいと思います。

私が福島県南相馬市から京都へ小学生の娘2人と一緒に避難したのは、同年4月2日の事です。翌日の京都市内では「原発止めろ」のデモ行進が行われていました。

震災時の東日本は、コンビニやガソリンスタンドに長蛇の列ができるほど物不足の状態でした。イチエフで次々と爆発が起きるたびに降り落ちる大量の放射性物質のことは、情報があまりにも少なく、福島市方面へ延びるように飛散していることなど想像するも難しい状況でした。そうして多くの人々は寒空の下、被ばくしてしまいました。

京都入りした私たちは、避難所いた時に受け取った「被ばくスクリーニング検査済証」を提示しました。これは、外部被ばくはしていないといういわば「通行手形」でした。

つい最近、黒い雨裁判の一審判決が原告の全面勝訴で話題となりました。2015年に提訴したみなさんは、原発事故被害者に心寄せ、提訴にふみきったといわれています。放射性物質による内部被ばくの影響を考慮した判断が正しく認定されたのは本当に画期的で、これからの「核被害」を考える上で、大きな一歩を進めたものです。

さて、私は「大飯原発差止京都訴訟団」の世話人、「原発賠償京都訴訟団」の原告団共同代表をしています。裁判闘争において大切なことは、「民意に訴える」ことで、原告団、弁護団、支援者の強い協力体制があり傍聴席が埋め尽くされることで勝訴へ近づいていくと確信しています。最近では、東電の元トップに対する東電刑事裁判や東電株主代表訴訟で使った証拠を賠償訴訟や原発差止訴訟で使用するなど横のつながりが被告を追い詰めることに功を奏しています。

「原発賠償京都訴訟原告団」では、2019年夏に原告の陳述書の分析とストレスアンケート調査が実施され、結果が控訴審の証拠として提出されました。原告たちは原発事故後、地元の食材や水道水を使う不安があり(92.5%)、家の中の換気扇を止めたり窓を開けないなどの自衛策へのストレス(77.4%)を感じまた、自治体の発表する線量より高く(74.3%;n=35)、鼻血が出るなどの体調の変化もあり(鼻血は41.2%;n=34)、避難元の放射線量は子どもには安全でないと感じ(77.1%;n=35)、金銭的な負担に対する葛藤や(92.7%)、住み慣れた家を離れる不安はあったが(80.0%)避難することを決意したことがわかりました。子どもたちの異変はさらにひどく、体調変化があったのは58.5%、79.7%に放射能の影響と考えられる症状がみられています。

全国には4万人以上いるとされる避難者。健康面のサポートは喫緊の課題であり、原発事故の原因究明、責任と賠償の追求と同時に施策の転換を国へ求めることが重要です。今後もどうか応援のほどよろしくお願いします。

福島敦子