本「子どもの貧困」 〜日本の不公平を考える〜 阿部 彩 著  岩波新書

看護師である私の知人が,自分の子どもの通う「大成保育所」(大阪市東成区)を大阪市が民間委託したことの是非を問う損害賠償裁判を,他の子どものお父 さんと共に提訴し(2006年12月),「子どもの権利条約」にも挙げられている「あらゆる施策を通じて子どもの最善の利益が実現されること」を求めて 闘っています。「なぜ民間委託が必要なのか?」「委託後の保育状況はどうなるのか?」と心配する保護者への最後の説明会では,行政当局側は30人ほどの警 官隊を動員して中途で逃げ去っています。この裁判を支援する「大成保育所・子どもの人権裁判を勝たせる会」の事務局を担っておられる方の「この保育所民営 化反対の運動を子どもの貧困との闘いとして位置付けたい」との言葉が記憶に残っており,この題名を眼にしてすぐ読み出していました。

2006年7月経済協力開発機構(OECD)が「対日経済審査報告書」にて,日本の相対的貧困率(手取りの所得が国民一人あたり年間所得中央値の50%以下の人の比率)はアメリカに次いで第2位と報告しており,また,
1) 日本の子どもの貧困率が徐々に上昇しつつあり,2000年には14%(約7人に1人)となったこと
2) この数値がOECD諸国の平均に比べても高いこと
3) 母子世帯の貧困率が突出して高く,とくに母親が働いている母子世帯の貧困率が高いこと
を指摘しています。このような事態にたいして私たちはどう考え,どう行動すればよいのでしょうか?
著者は次のように述べます。
現代資本主義の社会においては「格差」は多かれ少なかれ存在する。しかし貧困と格差は異なる。「貧困」は格差が存在するなかでも,社会の中のどのような 人も,それ以下であるべきでない生活水準,そのことを社会として許すべきではない,という基準=価値判断である。「貧困」の定義は,社会のあるべき姿をど う思うか,という価値判断そのものなのである。
そして本書では,この「許容できない生活水準=貧困状態」で生活する子どもたちのこと,子どもにとって「許容できない生活水準」とは何かという問題が提起されています。第1章「貧困世帯に育つということ」のなかに著者の主張が端的に明らかにされています。
1) 子どもの基本的な成長にかかわる医療,基本的衣食住,少なくとも義務教育,そしてほぼ普遍的になった高校教育(生活)のアクセスを,すべての子どもが享受するべき。
2) 「完全な平等」を達成することが不可能だとしても,それを「いたしかたがない」と許容するのではなく,少しでも,そうでなくなる方向に向かうように努力するのが社会の姿勢として必要。
そして読後に気付かされたことは,第3章「だれのための政策か〜政府の対策を検証する〜」で「国際的にお粗末な日本の政策の現状」には憤る自分であって も,第6章「すべての子どもに与えられるべきもの」「日本ではなぜ子どもの必需品への支持が低いのか」での「子どもに何を保障すべきか」という問いには, 日本の現状にいつの間にか染まり「貧相な貧困観」になっている自分を発見したことです。
著者は自らを「貧困研究者」と称していますが,フリーの評論家ではなく,厚生労働省本省に1996年設立された国の政策研究機関である「国立社会保障・ 人口問題研究所」に1999年より研究員として所属しておられます。調査研究活動から得られた「できるだけ客観的なデータ」を分析しつつ進める論述は, 「データは,政治を動かす上でパワフルなツールである」と表現されているように,非常に説得力のあるものとなっており,「大成保育所・子どもの人権裁判」 への支援の気持ちを固めるものともなりました。

2008.12 I